3000mSC・2000mSCアカデミープロジェクト(参加者募集)
水戸ランナー塾ヘッドコーチ岩渕仁
日本陸連盟公認コーチ
水戸ランナー塾では、多くのトップアスリートを育てた経験豊かな専門のコーチが、
3000mSC、2000mSC選手の強化育成のアカデミープロジェクトを立ち上げました。
1.選手育成対象:
男女高校生以上(若干名)
2.トレーニング理論の習得と実践:
1)クロスカントリー・ヒルトレーニング
運動生理学の知識に基づいた、長距離走のスタミナ養成及び脚力強化。
2)トラックトレーニング
ポイント練習指導
スピード強化、ハードリングとフォームづくり。
3)試合・コンディショニング
スポーツ整体師とスポーツ管理栄養士からの食事指導で疲労回復と故障予防。
3.練習場所:
笠松運動公園、ケーズスタジアム、ひたちなか市総合運動公園、千波湖(四季の原)、県民の森
4.強化担当:
岩渕仁(日本陸上競技連盟公認上級コーチ)
競技歴=第47回箱根駅伝10区区間賞(日体大総合優勝)、1977年9月八ヶ国国際3000m障害銀メダル(8分30秒8)、アジア大会(銅メダル)、国体3回優勝、全日本実業団4回優勝、日本選手権7年連続上位賞(2位6回)
特別支援コーチ
5.技術・栄養指導:
内田尊久(茨城陸恊普及委員長)
石川 藍(管理栄養士2026年3/1国試)
6.経費:
特別強化選手=スポンサー企業公募
個人=参加費1回2,000円 回数券会員(12回22,000円)
アスリート会員(30,000-50,000円/月)
連絡先 水戸ランナー塾
〒310-0013茨城県水戸市若宮2-6-7 TEL029-225-2270
水戸ランナー塾 岩渕 仁(携帯)090-9684-6347
2025年7月1日
氏名 岩渕 仁(いわぶち ひとし)【プロフィール】
生年月日 1948年10月13日
出 身 地 岩手県大船渡市
最終学歴 日本体育大学 1972年3月卒
【職 歴】
1972年4月 茨城県教育庁入庁
1973年4月 茨城県立水戸第三高等学校教諭
1986年4月 SB食品株式会社入社
1989年1月 株式会社日立製作所入社
1997年6月 スポーツ整体院開業
2011年2月 水戸ランナー塾ヘッドコーチ
【競技歴】
中学生より走り始め、岩手県中学校対抗駅伝大会準優勝した。高校時代は全国大会
800mと1,500mで3位入賞した。
大学時代は、関東学生選手権1,500M.3,000M障害で優勝し、1971年第46回箱根駅伝
大会でアンカ-第10区を走り3位から1位に順位を上げ逆転優勝を果した。
茨城県教員としては、1972年より1982年10月の33歳まで走り続け、日本選手権6回準優勝、国体4回優勝、全日本実業団4回優勝し、アジア大会では銅メダルを獲得した。
自己記録は、1979年9月の八ヶ国陸上競技大会3,000障害で準優勝した8分30秒8は同年日本歴代3位の記録であった。
【指導歴】
1982年10月から県立水戸第三高等学校、ヱスビ-食品監督在籍中に3人の日本選手権覇者の横須賀久乃、橋本泰子、照沼由香を育てた。また、佐々木七恵(高校時代の親友の妹)をロス五輪のマラソン選手に導いた。
1989年1月より1995年3月まで、日立製作所の女子陸上競技部初代監督として、全国で
も屈指の選手強化のための環境を整え、強化に取り組んだ。[同部は1997年の全日本実業
団女子駅伝大会において5位入賞、同年東日本実業団女子駅伝では優勝を果した]
1995年から福島県南相馬市(旧小高町)で、特別コーチとして長距離選手の育成に励み
多の選手を発掘している。特に今井正人を野球選手から長距離選手へと導いた。
2001年から神長博臣(県立緑岡高校)]を指導し、2003年長崎インターハイで800m1.51.89
の県高校新記録で優勝に導いた。
2011年から水戸ランナー塾ヘッドコーチとして近隣の中高校生を対象に基礎トレーニ
ングからスピードトレーニング、試合調整法を指導している。
育成に携わった主な選手は、道川悦子、大塚正美、打越忠雄、新宅雅也、横須賀久乃、橋本泰子、照沼由香、小川ミーナ、今井正人、神長博臣、谷田部遼、鈴木雄大、石崎千滉、福島清香、白田香菜子、石川 藍、戸谷優海、松本陽菜、稲田爽来。
[3000m障害物語]
私が、3000m障害を始めて走ったのは大学2年生の1970年に岩手国体の岩手県代表予選会でした。当時は地元実業団で大活躍中の中島選手がいるので勝てないと思い、前半から先頭を切って飛ばしたが最後は息が切れて中島選手に抜かれて9’10”秒位で2位でした。本当に苦しくて生涯(?)やりたくないと思いました。 しかし、大学4年生の1971年最後の関東学生選手権で日体大の総合優勝が懸かっていたため1500mと3000m障害にエントリーしました。1500mは3’52”3で優勝しましたが、3000m障害は前年度優勝の宮広選手(順大)がいるので、無理と思い前半から飛ばしましたが、意外と苦しむことなく走り切って8’58”の自己新で優勝しました。
それから3年後、1974年の就職先の茨城国体では5000mに出場し途中の後半に失速してしまい6位でした。引退も考えましたが、まだ競技に未練が残り走り続けました。そんな時に、次年の国体から3000m障害が採用されることを知り、3000m障害に挑戦することにしました。冬季トレーニンはアーサー・リディアード式マラソントレーニングを強行して1974年11月21日から1975年3月31日まで総走行距離2.944㎞(月平均700-800km)を走り込みました。同年3月16日の勝田マラソン大会には2時間21分17秒で完走して、スタミナに自信を深めました。 1975年春シーズンは、スタミナとスピードのかみ合わせに工夫を凝らして取り組みました。ここでもアーサー・リディアード式トレーニングが功を奏して、5月4日のスポニチ大会で8’54”0の記録で、5月31日の第59回日本選手権大会の出場権を得て、昨年の第58回日本選手権大会1500m(4位)に引き続き、今度は3000m障害で挑戦することができました。結果は小山隆治選手に次いで8’46”0の自己新の2位で、アジア選手権大会の日本代表選手に初めて選ばれました。
アジア選手権大会の結果は8’56”6の2位でしたが、ハードリング技術を磨けばハードル1台で0.2秒稼げて8’40”は切れると確信しました。茨城県強化合宿で、110ハードルの日本選手権覇者で日体大後輩の柏崎勝美選手に、ハードリングの技術を教わり大障害を除く障害は足をかけずに飛び越えることが出来るようになりしました。その成果は、1975年10月5日全日本実業団大会で日本選手権覇者の小山隆治に8分36秒8の自己新で勝ちました。
[翌日の毎日新聞の記事]抜粋
全日本実業団陸上
岩渕(三千障害)小山を抑える
三千メートル障害に“新星”誕生した。岩渕仁(水戸三高教)が第一人者、小山(クラレ東京)を抑えた。8分36秒8は五輪標準記録に4秒8及ばないが日本歴代四位に当たる。岩渕は三周目でトップに立ち、二千あたりで一度、小山に抜かれた。しかしあと一周でスパートをかけ、小山を抜き去った。中略
岩渕は日体大時代は千五百メートルの選手。三千メートル障害は今年に入って本格的に始め、今年に入って六回目の競技。ベスト記録は今年の日本選手権で出した8分46秒0。女子高校の先生で練習は毎日一人。朝、自宅近くで12キロ走り、放課後も20キロ近くジョッグをくり返している。敗れた小山は「記録的にはショックはないが、負けたことは悔しい・・・」といじをみせた。小山にとっても岩渕の出現は大きな刺激にやるだろう。
1976年3月から、日本陸連の五輪の強化選手に選ばれて、宮崎の強化合宿に参加しました。
そこでは、中長距離選手の強化担当していた、4月から早稲田競走部の監督に就任する中村清先生にお会いしました。中村先生から「瀬古利彦が早稲田に入るから、週末には千駄ヶ谷に来て一緒に走ろう」と誘われました。同時期に、陸連の帖佐寛章強化部長からも、小山選手との強化合宿に参加しないかと誘いを頂き、小山選手の合宿に参加して、スピード強化を図りました。しかし、春先は絶好調でしたが、調子が上がり過ぎた為か、6月の第61回日本選手権大会では、小山選手に勝てませんでした。
1976年11月から中村清先生(早稲田大学-SB食品監督)門下生になり、週末には上京して中村先生の下、瀬古選手とアーサー・リディアード式マラソントレーニング励みました。
1977年には小山選手も引退して自分の時代と自負していましたが、その年の夏休みに欧州遠征から帰国した中村清先生から「日体大の新宅雅也選手に3000m障害の技術を教えてやるように!」と言われました。早速、成田から直行で水戸に来た新宅選手に笠松競技場でハードリング技術とトレーニング法を伝授しました。1977年10月30日の第62回日本選手権大会で初優勝を狙い8’34”4自己新で走ったが、新宅選手も8’32”4自己新で走り、教えた最後のハードリングで差されて惜しくも2位でした。中村先生にはコーチとしての才能があると褒められましたが。。。。
1978年9月25日第1回八か国対抗陸上競技大会で、日本代表として8万人の大観衆の国立競技場で3000m障害を走り8‘30“8の自己新2位で会場を沸かせました。
1979年10月の第63回日本選手権大会でも新宅選手に負けて2位、1980年の第64回日本選手権大会は4位でした。
1981年10月25日第65回日本選手権大会は33歳となり、教え子の横須賀久乃と橋本泰子(後に二人とも日本選手権覇者)のコーチ業に専念するために、最後の大会と決めて臨みました。
[月刊陸上競技]1981年10月号記事抜粋
10月25日。岩渕は第65回日本選手権大会が開かれている国立競技場に妻の幸枝と当時8歳の長男・歩、3歳の長女・有紀。そして20人の教え子をつれて行った。
「万年2位の男の最後だ。よく見ておけ」
メーンスタンド中央にセーラー服がズラリ並んだ。その前で3000mSCの決勝がスタートし岩渕は力走した。日体大の後輩の日本記録保持者・新宅雅也は出ておらず、岩渕に今度こそ女神が微笑むか、とおもわれたが若い酒匂真次がラストスパートで岩渕をしのいだ。ゴール前、すさまじいデッドヒートであったが岩渕は0.3秒差で敗れ、日本選手権6回目の2位。最後まで脇役人生を歩き通した。
まさに燃え尽きんとする情熱の炎をかきたて死力を尽くす恩師の姿に、感じやすいセーラー服の集団は涙を浮かべて魅せられていた。その中に橋本も、横須賀もいた。妻は感動の極であった。「僕の前にはいつも人誰かいるのです」。「もういいです。悔いはありません!」。「これが岩渕仁の人生なのだから」。
日本選手権大会3000m障害成績
1974年第58回日本選手権大会1500m④3.48.1
1975年第59回日本選手権大会3000mSC②8.46.0自己新記録①8.42.2小山隆治
1976年第60回日本選手権大会3000mSC②8.56.6①8.39.0小山隆治
1977年第61回日本選手権大会3000mSC②8.34.4自己新記録①8.32.4小山隆治
1978年第62回日本選手権大会3000mSC②8.38.0 ①8.36.9新宅雅也
1979年第63回日本選手権大会3000mSC②8.31.7自己新記録①8.25.8新宅雅也
1980年第64回日本選手権大会3000mSC④8.53.6 ①8.36.5新宅雅也
1981年第65回日本選手権大会3000mSC②8.43.8 ①8.43.5勾酒真次
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