こんにちは!
ヘッドコーチの仁です。
指導者としての道について載せますね。
1984年1月号の陸上競技マガジンP77~の特集記事を抜粋して紹介します
[岩渕仁と娘たち]
「現役を去って2年、岩渕仁は2人の日本チャンピオンを同時に世に送った。教え子の女子高校生も彼にしっかりついて行った」
一度にチャンピオン2人

1983年10月2日秋晴れの東京・国立競技場。第67回日本陸上競技選手権大会は栄誉授与式で一息ついた1時10分、女子10000m決勝がスタートした。2年前に新設された新種目でまだ歴史が浅い。
過去2回、増田明美と金子るみ子が優勝しており、どちらもそのときは高校生だった。今回33分01秒5の大会記録を持つ増田は出ていないが、実業団入りして2連勝目指す金子の姿があった。そのほか島田裕子や、ベテラン・田島三恵、柏木千恵美、田中三恵ら実業団勢に有力選手が多く高校生となると水戸三高の橋本泰子ただ一人しかいない。
ところがたった一人の高校生、お姉さんたちを押しのけて堂々優勝してしまった。今年もまた、女子10000mの選手権は高校生の手中に落ちた。
「いけっー、そこからだあっー」
橋本が島田、田中と競り合いながらあと2周にさしかかったとき第一コーナー付近から声がかかった。橋本はバックストレートに出るなり先頭を奪った。たちまち島田も田中も 遅れる。鐘がなってあと1周。橋本はもう1度スピードを上げた。34分33秒 8の自己新記録。2位田中に20m以上の差をつけゴールインした。
スタンドから指示を出した声の主は橋本の師の岩渕仁であった。
勝つときはこんなものか。よく走ったなあ、この子たち。それに比べて7回も日本選手権に挑戦して優勝したことがない。このオレというのは、いったいなんだったろう。
橋本が入学した年の日本選手権大会の3000障害2位入賞を最後に、指導者一筋の生活に入った岩渕に、深い感慨があった。
[この子たちと]と岩渕が言っている。実はその前日、水戸三高から日本選手権に出場したもう一人の横須賀が一足早く3000mで優勝していたのだ。

同一校から高校生2人が揃って日本チャンピオンになったことがかってあっただろうか。
高校生がやたらと勝つ日本選手権大会というものも、成年選手にとっては、いいものではないが、横須賀の優勝タイム9分31秒12は日本歴代2位。橋本の記録も歴代5位。自信に満ちたレース展開といい、2人とも勝つべくして勝ったと言わなくてはなるまい。
だから、3000m障害でいつも小山や新宅の引き立て役を甘んじたまま一線を去った岩渕は、自分が何度もチャレンジしても取れることができなかった日本選手権を18歳やそこらで奪ってしまう教え子2人に感心したり驚いたり・・・。そのうち、うっすら涙さえ浮かべるのだった。
つづく